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      13、雨降り

  お菊は6つ半(19時)を過ぎると入口を見るようになった。自分では意識していないが自然とそうなった。それでも客の注文はすぐに受けた。


 4半刻過ぎたが坂西はまだ来ない。理由もないのに入口の外まで出て戻って来た。


「お菊さん、今日の坂西先生は遅いね」


 板前は気付いているらしく、何食わぬ顔をしてぽつりと言う。


「先生は関係ありません。雨が降りそうで外を見に行っただけよ」


「そうだね。降るかも知れないね」


 その時がらりと引き戸が開いた。お菊の顔がぱっと明るくなった。入って来たのは大工の留三だった。

「寒いね!熱燗頼む」


 お菊は何だかがっかりした声で、


「いらっしゃい。肴はおでんがあるわよ」


「ありがてぇ、そいつをくんねぇ。お菊さん元気がないね。どうした?」


「おんなじよ。留さんと同じ」


「そうなんだよ。明日は雨が降りそうで心配してんだよ。降られると実入りが無くなるからな」


 言いながら、何か変だ。


「あれ?何で雨の心配してんだ?」


  お菊はおでんを中鉢に盛り始めた。


「お菊さん、汁をたっぷり入れてくんねえ」


 それだけ言うといつもの場所へ座った。隣の席の三吉が、


「留めさん、明日は雨だよ。今日はゆっくり飲むんだな」

「そうか、やっぱりな。おっ、早いなもう来たよ」

 お菊が、湯気立つおでんと徳利を持って来た。​


「ありがとよ。すまねえが、お茶を土瓶ごと頼む」


「留めさんよ、けちくせえことすんなよ。酒の2,3本はおいらがごちしてやるぜ」


 留三は酒を茶で薄めて飲むつもりだった。


「すまねえな。明日の飯の分は残しとかなきゃならねえんでな。貸しといてくれ」


「水くせえな。おいらのおごりだ。たまにはそうさしてくれ」


 がらりと引き戸が開いて、坂西が入って来た。お菊はおでんの種を継ぎ足していた。


「お菊さん、坂西先生お出でなすったぜ」


 手持ち無沙汰でいた板前の辰吉が言う。お菊はゆっくりとした動作で板場を出た。ごく普通に、


「今日は遅かったですね。熱燗ですね。おでんがありますよ」


「いや、今日は酒は要らない。おでんでめしにしてくれ」


「あら、どうかなすったのですか?」


「何でもない。飲みたくないだけだ」


「はい、わかりました」


 板場へ戻って行くお菊は寂しそうだった。いつも会話にならない。言葉が続かない。用件のみで終わる。他の客とはいくらでも話せる。


 坂西も無口だ。心の内はお菊と色々話がしたい。それが出来ない。お菊を見るとなぜか無表情になる。顔に出ないように気を付けているからだ。


 生まれて初めて見た。美しい女だ。坂西は良く見せようと気取りがあった。客も坂西が無口だから、話しかけないようになった。


「お待たせしました!」


 お菊が、お盆におでんとめしの一式を持って来た。いかと大根の煮物と胡瓜のぬか漬けが添えられていた。一つづつ並べ置いた。坂西はそれをじっと見ていた。


 お菊もその視線を感じて意識していた。最後にぬか漬けを置いた途端、空になった盆が手から滑り落ちた。


 あっと思った時、その盆は坂西が受け止めていた。お菊の左手も一緒に。


 左手に盆、右手はお菊の手に添えられていた。その左手に盆を渡した。何事も無かったように。


「ありがとうございます」


  坂西の手は温かい手だった。お菊は左手に残る感触にぼーっとなった。坂西はお菊のひんやりした手にお菊の美しさを重ね合わせた。


 坂西はお菊を見て目を逸らし、箸を持った。


「いただきます」


 小さな声で言い、熱いみそ汁を吸いめしを口に入れ、おもむろに竹輪を箸で挟んだ。お菊はじっと立ったままでそれを見ていた。


 はっと気がついて、板場へ戻って行った。温かい手の感触が忘れられない。


「どうした?何かあったか?」


 辰吉がぼーっと入って来たお菊を見て声を掛けた。お菊は我に返り、

「ぬか漬け出してくるわ」


 板場の外へ出て行った。ぽつぽつと小雨が降って来た。

 やっぱり雨だわ。と思いながらぬか漬けをざるに入れて板場に戻って行った。


「雨が降って来たわよ」


「そいつぁまずい!」


 辰吉は慌てて外へ出て行き、大ざるを抱えて入って来た。いかの開きが並べてある。


「もう止んでたよ。気まぐれな奴だ。又降るかもしんねぇ。板場に干すしかねえな」


 辰吉はいかの開きを愛おしそうに1枚ずつひっくり変えした。その1枚を焼き始めた。いかの香ばしい匂いが漂い始めた。


「ほれ、焼けた。坂西先生に出してくれ。これは味見だよ」


 坂西がめしを食べている。酒の時のように行く理由がなかった。助け船を得たように嬉しかった。行くと飯は終わり近かった。味見は無料である。

 

「すみませんが、板さんが味見して下さいと言っています」


「おっ、いか焼きだ。これは大好物だ。うまい!めしをもう一杯貰おう」


「はい、すぐお持ちします」


 板場に戻ると、辰吉がどうだったと言う顔をして見た。


「先生、おいしいと言ってたわよ」


「そうか、そいつは良かった。明日はもっとうまくなるよ」


 お菊は、めしどんぶりに熱いみそ汁を添えて持って行った。


「ありがたい、味噌汁も頼もうと思っていたところだ」


 嬉しそうに目尻を下げて言う。その顔は子供のようである。お菊は抱きしめたいような気持になった。母性本能と言うか胸がきゅっと締め付けられた。

                           つづく

次回14回は11月9日朝10時に掲載します