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        12.胸のときめき

 二人が道場に着いたのは8つ半(15時)を過ぎていた。


「止めっ!両側に着座」


 勝三の低い力のある声が道場に行き渡った。門下生は即座に着座した。勝三は高台に座った。坂西は自分から門下生の末席に移動した。 


「突然だが、対戦試合を行う。山西と岩田、真壁と杉田、田村と岩瀬、以上」


 門下生上位3組である。


「初めに田村と岩瀬」


 二人は前に出ると勝三に会釈をし、互いに向き合い会釈をした。


「始め!」


 勝三の鋭い声に、二人は互いに正眼に構えた。その瞬間、田村の竹刀が岩瀬の胴を切り抜け一間先で静止していた。見えた。坂西に見えた。見事な片手胴切りだった。


 続いて真壁と杉田。互いに片手面打ち。相打ちに見えたが勝三の手は杉田に上がっていた。最後に山西と岩田の対戦である。


 始めの合図が聞こえなかったのかと思うくらいの長い間、互いに正眼の構えで身じろぎもしなかった。気合と共に山西が宙を飛んだ。


 岩田の竹刀が受けきれずに床に落ちた。全ての勝負が最初の一手で勝敗がついた。しかも片手の打ち込みだった。末席で離れていたから竹刀捌きが見えたが、間近では見えなかったであろう。


 山西の宙を飛ぶ姿は見えたが、最後の竹刀捌きは末席でも見えなかった。坂西は自信を無くした。


 井の中の蛙大海を知らずであった。剣であったら命を落としていた。勝三の終了の声は耳に入らなかった。一人取り残されたように座っていると、


「坂西さんどうした?」


「あっ、先生。お恥ずかしい。身の程を知りました」


「ははは、慣れだ。すぐ慣れる。ちょっと一緒に来てくれ」


 道場入口隣、6畳の部屋に連れて行かれた。3人の門下生が着替えを終え、賃粉切りを始めていた。3人は勝三が入って来たのを見ると手を止めて見た。


「今日から、坂西さんも賃粉切りをする。みんなで教えてやってくれ。山西、道具と葉を揃えてやってくれ。よろしく頼むぞ」  


 坂西はまな板と包丁を渡された。まな板は幅1尺と長さ2尺に1寸5分の厚みがあり、包丁は長方形で変わった形をしていた。


 渡された煙草の葉を、教えられた通り横に5枚重ねて垂直に切って行く。真っ直ぐに切れない。おまけに幅が大小まちまちである。


 揃えて切ろうとするが押さえているからずれてしまう。隣の山西は5枚重ねの7回目を切っている。坂西はやっと1回目を切り終えた。


 ふと山西を見ると正座をしている。山西だけではない。他の皆も正座をしている。おまけにみんな襷がけをしている。山西が気付いてふり向いた。


「坂西さん、賃粉切りも修行です。正確に刻むことは集中力が無くては出来ません。襷は勿論の事、正座をして心身を一つにします」


「そう言うことですか。先程の対戦試合に出られた方が、ここには山西さんを含めて3人いらっしゃいますね」


「そうです。5人の内3人です。門下生全員が賃粉切りを望んでいます。しかし、ここは6畳間です。6名が限度です。実は先月、ここから一人、ある藩の警護に迎えられました」


 坂西は帰宅途中、神社の境内にて木の葉を懐にぎゅうぎゅうに詰めて帰宅した。葉は大きさも硬さも煙草の葉とは違うが、包丁で夜明けまで切る練習をした。


 道場での稽古、賃粉切り以外の時間は、木の葉を相手に寝る間を惜しんで葉を刻む練習をした。


 5日目には山西が驚いた。坂西さん、我々の刻みと変わりません。ひょっとするとどこかで経験がおありで?いや、違う。4、5日前はひどい仕事だった。どうしたのです」


「いえ、山西さんから言われた通りにしているだけです。おかげ様です。ありがとうございました。しかし、まだまだ未熟です。これからもご指導よろしくお願いします」


「今日までの手間賃です」


 今日は月半の15日。山西から一分金(2万5千円)を渡された。坂西は嬉しくなった。これまでのめし代を払っても残りがある。今日は酒を飲むぞと思った。蕎麦屋へ向かった。

 蕎麦屋に着いたのは6つ半(19時)を過ぎていた。店はほぼ満席である。夜は蕎麦屋とは名ばかりで誰も蕎麦は食わない。酒と肴である。坂西は座らず板場に向かった。


 「どうかしましたか?」


 お菊が笑みを浮かべて寄って来た。坂西は会うたびに胸がどきりとする。 


「勘定を払いたい」


「先程、先生がお支払い下さいました」


「えっ、それは困りました。身共が払う」


「先生は毎月15日にお支払いに来ていただけます。ですからお支払いはありません」


「そうか、申し訳ないことを致した。お菊さん、酒を出してくれ」


「あら、お酒ですか?飲めないのかと思ってました。すぐお持ちします」


 お菊は厚揚げの煮物を添えて酒を持って来た。


「どうぞ!」


 両手で徳利を傾けながら、お酌をした。隣の客がそれを見て、


「お菊さん、俺、酌なんかして貰ったことないよ」


 お菊は聞こえぬふりをして、


「お肴は何にしましか?」


「焼き魚が良いな。何がある?」


「はい、鯖の塩焼きはいかがです?油が乗って旨いですよ」


「それを貰おう。それと、もう1本持って来ておいてくれ」


「はい」


 嬉しそうに返事をする。身体にしなをつける。身に着いた仕草だ。蕎麦屋ではしたことが無い。坂西の前に自然に出たようだ。

 坂西は悔いた。どうしてもっと気の利いたことが言えないのだろうか。ありがとうの一言も言えない。なぜか緊張している。


「お武家さん、ここのところ良く見かけますがお近くですか?」


 隣の客が聞いて来た。坂西はお菊のことで頭が一杯で聞こえていない。


「失礼しやした。名乗りもしませんで。あっしは近くの長屋に住む三吉と申しやす。大工(でーく)です。おひとついかがです?」


 目の前に徳利を出されて坂西は気がついた。黙って見返した。


「すんません、失礼をいたしやした」


 三吉は気安く武家に声を掛けたのを後悔した。さっと血の気が引いた。一尺程席をずらした。


「これはすまぬ。ちょっと考え事をしておった。頂こう」


 三吉は地獄で仏のような顔になり、立ち上がって両手で徳利を持ち酌をした。


「馳走になろう。さ、今度はお前の番だ」


 坂西は自分の徳利を持ち三吉に向けた。


「ありがとうごぜえます。いただきやす」


「常連のようだな。よろしくな」


「へ、お武家さんにお酌して貰えるなんて光栄です」


 三吉は背筋を伸ばして両手で受けた。


「何を仰々しい。わしは武家ではない。浪人だ。さ、もう一杯いこう」


「とんでもありやせん、あっしにお酌させてください。ここは誰も酌してくれませんから」


「ははは、そうか。見てたか。お菊さんはわしがここで初めて酒を頼んだから、びっくりしたんだろうな」


「実はあっしも見ていやした。お菊さんは誰にもお酌はしたことがありやせん。だから、高名なお武家さんだと思いやした」


「見ればわかるだろう」


「いえ、見ただけでわかります。あっしらと品格が違いやす。何と言いましょうか、全てが違うんです」


「馬鹿を言うな」


「いえ、お武家さんには後光が射しております。ここ何日かお見掛けしておりますが、お武家さんがお出でになるとそこがぱっと明るくなります」


 近くで飲んでいた者たちが寄って来ていた。狭い店だ話がまる聞こえだった。


「あっしらも是非お仲間にしていただけやせんか?お願いしやす」


「わしは武家じゃない。浪人だ。こっちこそよろしく頼む」


「ありがとうごぜえやす。先生どうぞ」


 寄って来た5人の客は、徳利をそれぞれ手に持ち坂西に酌に来た。


「先生じゃない。わしは坂西と言う」


「坂西先生、どうぞあっしの酒も受けて下さい」


この日以来、この蕎麦屋では坂西先生と呼ばれるようになった。

                                             

                            つづく

次回13回は11月2日火曜日に掲載します