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     覚悟の失業 18

 玲子は結婚と言う言葉を聞いて身体ごと甘くなっていた。結婚と言う言葉を意識し始めたのは看護士と言う職業に就いてからだった。


 高校生になるまで恋愛はもちろん、恋すらしたことが無かった。入学した1年生の秋、窓からの風が寒くて閉めようとしたが閉まらない。困っていると。

 

「僕が閉めて上げるよ」


 えっと振り向くと、隣の席から立って来て簡単に閉めてくれた。


「僕も寒いと思ってたんだよ」


 にっこり笑って席に戻って行った。その顔が忘れられなくなった。いつの間にか好きになっていた。学校に行く理由は彼に会うことだった。


 3年間同じクラスだった。なのに一言も話すことは無かった。卒業式の日、彼が傍に来て小さい声で、


「好きでした。さようなら」


 それだけ言うとさっといなくなった。玲子は茫然とその場に立ち尽くした。思う程に、どうしても自分の気持ちを伝えたかった。


 卒業式が終わり解散になった時、彼が再び来た。深刻そうな顔をして、


「電話番号教えてくれませんか?」


 玲子は教えながら胸がどきどきした。その日の夕方に早速電話が来た。それからつきあいが始まった。卒業後、玲子は埼玉、彼は東京に住んだ。


 しかし、長くは続かなかった。3年目の春、彼は大学の校舎が変わると神奈川に引っ越した。さらに遠くなり、会う機会が少なくなった。


 その秋、中絶をした。それから会う機会が益々少なくなった。その冬、別れ話をされた。理由は学業に専念したいと言うことだった。


 目の前の何もかもが消えた。看護学校で学ぶをことも、食事をすることも意味が分からなくなった。思考が停止した。息をすることの理由がわからなくなった。


 突然、後ろから抱き留められた。目の前に電車の轟音が続いて行く。踏切の警報が鳴り響いている。

 

 電車の轟音が去って放心状態でいた。自分がどうしてここにいるのかがわからない。身体を後ろから力いっぱい抱きしめられている。


「死んでも状況は変わらないよ。後に迷惑をかけるだけだよ」


 後ろから、優しい声で静かに言われた。私、死のうとしたんだわ。でも、なぜ死のうとしたのかわからない。


「家はどこ?送って行こう」


 振り向くと父親程の男性だった。車の通れない、歩行者だけの遮断機の無い踏切。幸い他には誰もいなかった。言葉が出なかった。


「お茶でも飲もう。おいで」


 手を引かれた。玲子は黙って引かれるままについて行った。すぐ近くにある一戸建てだった。


「ただいま!」


「あーら、早いのね」


 中から女性の声がした。


「お客さんだ。珈琲淹れてくれ。さ、上がって」


 戸惑っていると、


「ほら、靴を脱いで…」


 そこへ女性が出て来た。妻であろう。


「生徒さん?いらっしゃい。どうぞ」


「ちょっとそこで、行き会ったから…」


 台所兼居間に通された。応接椅子に座らせられた。男と向かい合った。五十絡みの紳士風の男である。近くにある高校の教師だった。


 そこへ女性が珈琲を持って来た。


「お名前伺っていませんでしたね。何とおっしゃるの?」


 男は一瞬困った表情をした。玲子はすかさず答えた。


「清水玲子と申します。今、助けて頂いたのです」


「ちょっとしたことがあって…。大した事じゃないんだがね」


「あら、何かしら。私にも教えて欲しいわ」


 肌寒い冬の中。ここは温かい空気に満ちていた。女性は母親のような優しい雰囲気だった。玲子はさらりと言った。


「私、自殺しようとしたんです。助けて頂いたのです」


「えっ…」


 女性は言葉を無くし、男を見た。ためらいながら、


「うん、そこの踏切で…」


「清水さん、私も死のうとしたことがあります。今、幸せに生きています」


「えっ、君がか?初めて聞くことだな」


「そうよ。おかげであなたに巡り会ったの。言わなかったかしら?」


「いや、聞いていない。まさか?」


「そうよ、失恋したの。今考えれば馬鹿馬鹿しいわ。くだらない男だったの。おかげであなたと巡り合ったの。ある意味、その人に感謝しているわ」


「と言うことは、30年ぐらい前の話だな」


「その時の倍以上生きているわ。これからも続くのよ。あれ?フランスパン買って来なかったの?」


「あっ、ごめん。忘れちゃった。帰って来ちゃったよ」


「そうね。そう言うことね。清水さん、手伝って下さらない。これから夕食なのよ」


 彼女は踏切のこと等聞かなかったかのように、にっこり笑いながら言う。


「はい、お手伝いさせて下さい」


 玲子は笑顔につられるように答えた。彼女の指示で野菜サラダを作ったり、テーブルにお皿を並べたりした。


「出来たわ、清水さん座ってね。食事にしましょう」


「えっ、私もですか?」


「いつも主人と二人きりで味気なかったの。付き合ってね。私の得意なビーフシチューよ。今日はパンの代わりにごはんですけどね」


 にっこり笑って片目を瞑った。玲子は頭を下げて、


「すみません。私のために」


「違うのよ。私はいつもご飯なの。この人はいつもフランスパンなの。だから、自分で買いにいったのよ。おかげで今日は楽しい夕食になるわ。付き合ってね」


 食事が始まると、いつの間にか一緒に笑ったりしていた。久しぶりに明るく楽しい宵を過ごした。この夫婦とは、今もお付き合いさせて戴いている。

                                 つづく

次回19回は12月3日金曜日朝10時に掲載します