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                   覚悟の失業 14.

 レジに行くと清水が財布を持って、


「今度は私がお支払いします」


「いや、大したことじゃありませんから」


「いいえ、今度は私の番です。お幾らですか?」


 店を出ると、池田は自分が払うつもりでいたのにと、少しがっかりした。付き合いして貰うだけで嬉しかった。費用は全て自分で持つつもりでいた。


 駅前に行くとタクシー乗り場へ向かった。池田のアパートは若葉駅寄り。それに清水を歩かせては悪いと思った。


「電車で行きましょう。駅から遠いのですか?」


「いいえ、10分ぐらいです」


「じゃ、電車にしましょう。健康のために」


 清水はにっこり笑って駅を指さす。鶴ヶ島駅で降りると二人は歩いた。話しながら歩いたのですぐに着いた。


 5階建てのマンションだった。5階の2号室だった。池田は先に入ると、


「どうぞ、入って下さい。散らかってますけど…」


「良い所にお住まいなんですね」


「良い所じゃないのですけど、理由がありまして。音が漏れにくい所となると、マンションじゃないとだめなんです

 

「音楽ですね。良いお趣味ですね」


「どうぞそこに座って頂けませんか」


 奥の部屋はまるでオーディオルームだった。8畳程の部屋で、正面ベランダの前に大きなスピーカーがあり、右壁にオーディオ装置とディスクが並ぶ。


「初めに越路吹雪の愛の讃歌をかけますね」


 二つのスピーカーの中央に越路吹雪が立っているように聴こえた。日頃聞いているラジカセの音とは雲泥の違いだった。初めての経験だった。聴いていてぞくぞくした。


 続いて、ピアフ、フランソワ、クレールと続いた。フランス語で意味はわからないが清水は心がせつなくなっていった。


 ピアフの作詞は激しい愛の詩であった。恋人には妻子がいた。許されない恋だから一途な思いを込めていた。ピアフの歌は、歌詩そのままに激しい歌唱であった。


「原詩の歌は激しさと一途さが伝わって来るでしょう」


「何だか堪らない気持ちになります」


「この歌にはエピソードがあります。恋人のボクサーセルダンが、ニューヨーク公演中のピアフに電話します。試合がニューヨークであるから会いに行くと言うのです。ピアフは早く会いたいから、船より飛行機にしてとお願いします。その飛行機は墜落して彼は帰らぬ人となるのです」



「えっ、飛行機にしてと変更させたのはピアフでしたね。その時の気持ちは推し量れません。悔やんでも悔やみきれないですね。辛いですね。いつ頃のことですか?」


「1949年のことです。この日のニューヨーク公演で、みんなの反対を押し切ってピアフは愛の讃歌をセルダンのためにと歌いました。この日以来、愛の讃歌はピアフの代名詞と言われるようになりました」


「日本語の歌が聴きたいです。もう一度、越路吹雪の歌を聴かせていただけませんか?」


「わかりました。では、越路吹雪と岸洋子を聴いて下さい。越路吹雪の歌は岩谷時子の訳詞、岸洋子は永田文夫の訳詞です。永田文夫の歌詞は原詩に近いです」


 2曲目の岸洋子の歌を聴いた後、清水はため息をついた。


「ドラマチックでピアフの心が伝わって来るようです」


 池田はにっこり笑って頷き、


「そうなんです。でも日本では愛の讃歌と言うと、越路吹雪の歌なんですよね。疲れたでしょう。今、珈琲を入れて来ます」


 清水は私がと言おうとしたが、初めての訪問だし遠慮した。しかし、何だか初めての気がしない。男性の家なのに警戒心など全くなく自然でいられる。むしろ、心がほかほかと温かい気持ちになっている。


 清水は珈琲を一口飲むと、


「なぜ、越路吹雪の方なんですか?」


「明るく愛を讃歌する歌詞だからです。だから結婚式でも良く歌われます。直訳の方は死などの言葉が出て、リアル過ぎるからでしょうね。温かい愛が良いですよね」


 清水はその言葉を聞いた時、この人は温かい愛に満ちた人だと思った。そして、池田といる時は温かい気持ちでいる自分に気がついた。


「そうですね。温かい愛は良いですね。そんな恋がしたいですね」


「えっ、恋人はいないのですか?」


「あら、いたら、お邪魔などしませんよ」


 池田は思いがけない言葉に嬉しくなった。自分にもチャンスがあるかもと思った。

                          つづく

次回15回は10月22日金曜日朝10時に掲載します